| その 8 | 文月「万葉集」にも、あらたまの年の緒長く思い来し恋をつくさむ七月(ふみつき)の七日の夕は吾も悲しもというのがあり、この七月をフミツキと訓(よ)ませている。七夕の行事は奈良時代の養老年間(717〜724)に、中国から移入されたもので、もともと日本にはない風習であった。 このことから、稲の「穂含月」だとする説や、稲の穂の「含月」だとする説のほうが、水稲耕作に結びついて納得がいくようである。 月名の異称=文月、親月、(しんげつ)相月(そうげつ)蘭月、涼月、桐月(とうげつ)七夜月(ななよつき)七夕月、女郎花月(おみなえしづき)秋初月(あきそめづき)愛逢月(めであいづき)ーこよみ辞典より |
| その 7 | 衣替(旧暦4月1日と10月1日)は平安時代以降、まず宮中で定着した。旧暦4月1日と10月1日を衣替の日とし、4月1日になると冬装束から夏装束に替え、10月1日になると再び冬装束に替えた。当時は四季に応じた衣装はまだなく、下着などで調節したといわれる。江戸時代になると幕府が、4月1日から袷小袖、5月5日からは一重帷子麻布、9月9日から綿入小袖などと定めた。こうして4月1日になると綿入を脱ぎ、袷に替え、人々は身も心も軽くなったのである。人の姓名で「4月1日」と書いて「わたぬき」と読む珍しいのがあるが、この衣替えの風俗に由来した名前である。また、新潟県や長野県の一部では、6月1日を衣脱ぎついたちといい、新たに夏服を着て神詣でをする日としていた。また、岩手県では、剥け節句と呼んで、蛇が皮を脱ぐ日だとした。そしてこの日は、鬼の骨と呼ばれる干し餅を食べて歯固めをした。また、蛇が皮を脱ぐので、桑畑に行ってはならないとの言い伝えがある。 |
| その 6 | 道成寺鐘供養について 道成寺は天台宗の寺院で、天音山千手院と称す。大宝元年(701)に文武天皇の勅額によって、紀道成が創建したと伝えられている。昔は僧坊が16もあったが、中世になって衰えた。 伝説によれば、延長6年(928)奥州の僧安珍が熊野参詣の途中、紀伊国牟婁郡真砂の庄司清次の家に泊まったところ、その娘清姫に恋され、帰路に夫婦となることを約束した。しかし、安珍は僧であるため、その約束を守らなかったので、清姫は怨んで大蛇となってあとを追い、道成寺の梵鐘にかくれた安珍を、鐘の上かた巻きついて焼き殺したという。 |
| その 5 | 酒で不覚取った例は、昔も今も数限りない。 日本の第一号は南九州は熊襲のタケルか。 四世紀、美少女にふんした景行天皇の皇子がすすめる酒に酔い、殺された。 しかし「今後はヤマトタケルと名のるよう」と言い残した死に方は格好よろしい。モーニング・アフターつまり二日酔いを後悔しない人はいない。二日酔いを意味する外国語はイメージ豊かで、フランスでは「木の鼻づら」、ドイツは「猫の鳴き声」、ノルウエーは「頭の中に大工がいる」、イタリアでは「調子はずれ」、ポルトガルは「引き潮、あるいは打ち寄せる波」 二日酔い読本より。 |
| その 4 | 茶道の千家流には、千家表流・千家裏流・官休庵流の3つがある。 利休の孫である宋旦は、三男の宋左に家を譲って、後庭に隠居所を作った。この隠居所のあとを継いだのが宋旦の四男、宋室で、宋室は裏千家と称し、本家を表千家と呼ぶようになった。 官休庵流(武者小路千家)は宋旦の次男宋守が始めたもので、京都の武者小路に茶室をおいたので、その名がある。 |
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| その 3 | 日本で最初に国土領有をあらわし日の丸の旗を掲げたのは、 文久2年(1862)1月20日小笠原の父島です。 |
| その 2 | 議員バッチは、全国市議会議員一般用の単価は2600円。 その上は9000円もあります。 |
| 9000円のバッチを付けた方は、非常に不評をかったそうです。 |
| その 1 | 議長選挙で私が知ってる限りで一番長い日は、朝10時開会すぐ暫時休憩をとり、 |
| 次の日の朝5時まで(19時間)かかり、議長が選出されました。 |