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珍道との交流について (9月21日)



私は、先月の8月13日から8月20日まで韓国珍道(珍道群)に行ってきました。
下関から釜山までフェリーで約10時間、釜山から珍道まで、バスで約7時間の長旅でした。
 なぜ、珍道に行くことになったかと言いますと、5月24日の愛媛新聞読者の広場に、「広島県大学教授の日隈 健壬(たけよし)さん(64歳)投稿の、「韓国に眠る来島水軍を知って」を読んだからです。
 内容は、「慶弔2年(1957年)秀吉の朝鮮出兵の際、来島通総が、総大将として戦った、鳴梁(ミョンリャン)海峡のことで、敵の大将は韓国の英雄、李舜臣(イスンシ)であった。37才の通総は、5本の矢を受け、海に落ちたところを李舜の船に引き上げられ、命を絶たれた。
 その時、日本水軍330隻、韓国は12隻。敗因は来島海峡と似た、厳しい海流にあった。これは、「慶長の役}と教えられた歴史の事実である。
 私の投稿理由は、その時海に沈んだ若き青年達の亡骸を、代々供養してくれている韓国珍道の老人からのお願いの伝言である。
 同じ村上水軍の拠点、広島に住み関心を持っているが、村上水軍の一つ、来島の末裔の方々に、この若き青年達の事を知って頂き、一緒に交流等もお願い出来ないものかと思う。
 先日、研究室の院生と現地を訪れたが、墓地となっているゆるやかな畑のそばの30〜40位の韓国式土葬は409年の歳月で風化もひどく、線香・スルメ・ミカン・焼酎で素朴な供養だけはさせてもらった。
 ほとんど、公になっていない韓国珍道に眠る来島水軍の史実を多くの人達に知ってほしいものでした。

 まず、この新聞を読まれた方もいると思いますが、多くの人はまさかという驚きをされたと思います。私も信じることが出来ず、何故?どうして?今頃?という疑問が残りました。
 それから程なくして、来島保存顕彰会事務局長より電話があり、一大事件が発生したかのような声で、「珍道に行くことになるかも」と言いながら、日隈先生に会う日程を検討することになりました。
 
ところで、私は3年前に韓国視察の計画をしておりました。それは、巨済(コゼ)から、今治市を訪問し、来島大橋を見学したいと言っていた巨済大学、巨済役所の方々と偶然お会いすることが出来たからです。
 韓国に来た時は、是非ともお寄りくださいと言われた事を信じていたものですから。
 まず第一に、豊臣秀吉の朝鮮侵略に参加した武将の一人が、その配下を率いて朝鮮側に投降し、壬辰倭乱に功労を立てました。
 このため、朝鮮国から官職を受け、金海金氏の姓を賜り、秀吉の朝鮮侵略集結後も朝鮮に仕え、1643年に没しました。その日本人は「沙也可」といいます。
 場所は慶尚北道の友鹿洞(ウロックドン)大邸(テグ)の南20kmの所にあります。
是非とも、視察することはお勧めします。
 第二は、得居通之(通総の兄)が1592年 7月 8日巨済閑山島沖・安骨浦の海戦で戦死しております。
 ここは、今回の旅では訪れていませんが、どのような場所で亡くなったのか見ておきたかったからです。

 日隈先生にお会いしてからは、修道大学の学生が8月のお盆に珍道行きを計画しているということで、私達もそれに便乗させてもらう事になりました。
 さて、お墓のある内洞里村は30戸のほどの小さな集落で、村の入口の山の斜面に土を盛った土葬式の墓が何基か確認できる程度です。
 それも、私達が来るということで、村の方々が草を刈ってくれていました。
普段は木にツルがまきつき、藪にしか見えません。
 その地を、「倭徳山」と呼び、409年もの長きにわたり、お墓を守ってくれている人々が居たという事は、ただ感謝という言葉しかありません。
 私達は、そこに来島通総の肖像画を置き、わずかばかりの「お供え物」を供え、同行した僧侶見習いの読経に続き、一人一人が墓に向かって手を合わさせてもらいました。
 村の方々は、好意的に私達を迎えてくれ、帰り際に村の皆様から
「日本の皆さん、また来年会いましょう。一年に一度でいいから、倭徳山を訪れてほしい。私達も大切にするから。」と聞きながら、次の場所に移りました。

 後で聞いた話ですが海の上に漂う日本水軍戦死者達を引き上げて、なぜ埋葬をしてくれてかというと、郷土歴史家の朴さんは、漁民は、海で死体を発見すると、そのまま過ぎる事はできない。
必ず収拾し安らかに埋葬するのが通常の礼法である。
 海に浮く死体を見付け、そのまま放置するとその死体が船の後をついてくるということわざを、今も信じてるからだそうです。

 次に訪ねた場所は、日本水軍の兵船133隻、これに対する李舜臣率いる朝鮮水軍はわずか13隻であった、鳴梁の海戦の鳴梁海峡でした。
 海峡の幅は、300m。来島海峡よりも幅は狭く、潮流の激しいところであると聞いておりましたが、私が見た感じでは、来島海峡の方が潮の流れは速いように思いました。
 日本水軍はここでも敗れ、来島通総は戦死するのですが、その敗因は潮流の変化だと説明されました。
海戦の日本側の記録「高山公実録」によりますと、
「先手のふねとも8敵船にあひ、手負あまた、いてき申し候、その他ふね手の衆めしつれられ候、かろう(家老)のもの共もくわん(過半)手負い討死に仕り候。
 朝の五しふん(時分)より西の刻まて御合戦にて御座候。みなと(港)のやうす(様子)はん船能く存じ候似つき、風を能く見すまし、其のせと(瀬戸)口もぬけ、津をひきかけ、はしらせ申すについて、是非なくおっかけ申す儀もまかりならず、いつみ(和泉)様(藤堂和泉寺高虎)も手を二カ所負われ候。」

 李舜臣による、乱中日記には「俊沙という名の降倭は「文様つきの紅錦衣を着ているものは日本の武将「馬多時」(来島通総)であると告げた。李舜臣は、部下に命じて来島通総を撃ち、その首を船の上にさらした。」と。

 珍道大橋を見下ろす鹿津展望台で説明を聞いていますと、韓国の報道関係の方々がどっと押し寄せて来られ、今回の訪朝について、これからの取り組みをどの様に考えているのかと、色々取材を受けました。
中には、政治について聞かれた方もいました。

 この朝鮮侵略も、1598年 8月18日秀吉の死、1598年11月19日露梁の海戦で李舜臣
11月21日 島津勢 巨済島を離れて対馬へ向かう。
 これにて、朝鮮侵略、壬辰、丁西の倭乱終わる。

 朝鮮侵略の爪痕で、この地に関係あることを紹介しておきます。
 それは、儒教を伝えた姜です。
 伊予大洲の城主藤堂高虎軍により、1597年 9月23日全羅南道霊光の沖で一隻の船に乗っている朝鮮人一族を捕虜として、日本に連れて帰りました。
 彼が高名な「儒学者」とは知らず、大洲城に幽閉し、一年後京都に移送しました。
そこで、藤原惺窩を知ることにより、日本に儒教が広まっていったそうです。
 姜が朝鮮で書き残した、「看羊録」に全羅南道務安群には、賊船6〜700隻が数里にわたってあふれており、それらの船には我が国の男女が倭兵とほぼ半々になるほど居た。
船ごとに泣き叫ぶ捕らえられた者の声は、海や山を震わすほどであった。
 連行された捕虜としては、農民・学者・縫菅女・陶工等です。
現在でも九州・中国地方では焼き物が多く残っているのはこの為です。

 日韓両国において、豊臣秀吉の朝鮮侵略をはじめ、1910年(明治43年 8月22日)の韓国併合から第二次世界大戦終了まで支配が続きました。
 
 韓国では、日本の植民地支配から解放された事を祝う日「光復節」が8月15日。
私達は、この日韓国で地域の皆様との行事計画がありましたが、小泉首相の靖国神社参拝で、行事計画がキャンセルになりました。


 日本に居たなら、テレビでの海外報道を通して現況を知るくらいのものですが、今回のように丁度8月15日にその場所に居たものだけにしか理解出来ない空気を感じました。
 それにも関わらず、皆様は私達を暖かく迎えてくれました。

 珍道郡の朴郡守(市長)は、「墓地の管理は珍道郡でしていきたいが、日本の皆様には関心を持ち続けてほしい。かつて敵として戦った者同士だからこそ、これからは本当の友達になれる。」 と申されました。
 また、全羅南道の道庁を訪問し、朴知事と面会しましたが、小泉首相の靖国神社参拝を批判し、
「過去の歴史を振り返ると、複雑な思いだ」と申されました。
が、それでも私達を迎え、色々とこれからの全羅南道の将来について話を聞かせてくれました。

 また、珍道郡文化観光課には、山梨県富士吉田市出身で珍道の方と結婚されている滝口恵子さんが、色々とお世話下さいました。
 珍道への旅として、日本語版のパンフレット・本を作成されて、日本の観光客のための対応もされているように思いました、
 
 短い韓国珍道の旅ではありましたが、多くの方々の暖かい心使いに接する事ができました。
朴郡守の話の中に、子供達の修学旅行に珍道にちなみに来て頂ければ有り難いのだが。」と。
 私達は、歴史や文化を見つめながらお隣である国、韓国との交流を深めることが出来れば幸いでございます。
 以上のことを含め、行政としては交流についてどのように考えているかお聞かせ下さい。

県内の各市の韓国との交流状況は、松山市が平澤市と友好都市提携をされています。
他の市に於いては、大洲市が霊光と青年会議所が主体で子供の交流事業を実施しています。

 村瀬事務局長は、「今治と珍道、日本と韓国の友好に向け、今後は子供達も含めて交流を続けていきたい。と話しておりました。
 
 松山市には、明治37年4月から約100基のロシア人墓地があります。
墓地保存会では、「100年の間には墓地が荒れた時代もあったら、帰りたくても祖国に帰ることが叶わず松山の地で亡くなった捕虜兵を埋葬し、暖かく100年もの間、見守り続けてきたのである」

 多大なご苦労があったと思います。

 私は市長も一度は訪ねていただきたいと思います。