| 埋 蔵 文 化 財 に つ い て |
| 別名寺谷T遺跡から発掘された弥生土器の高杯に描かれた2棟の建物は大変珍しいものです。 建物を描いた土器を見ることが出来ますが、壁を表現した物は、今までに出土したことがないので、 当時の建物を知ることが出来る貴重な資料だと聞いております。 |
| そこで、今までに大変貴重な多くの資料が発掘されていますが、その資料などは現在どのように されているかお聞かせ下さい。 |
| よく展示場などでは、ガラスケースの中にあるか、「さわらないで下さい」と張り紙があります。 私は多くの人に見て頂くだけでなく、手で触ってもらえるように、特に子供達には手に持って、よく観察できるようにして頂きたい。 |
| 例えば、土器を手に持ち、触ることにより、どのような時に使用したのだろうか、どのように作ったのだろうか、色々と興味を持ってくれると思います。 |
さてそこで、この高杯に描かれた建物を再現するとなると大変でしょうが、ミニチュアでも作り、 多くの方に見て頂く事は出来ないでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。 |
次に高橋佐夜ノ谷U遺跡から四国初の古代製鉄炉が発見されました。出るべき所からよくも出てきたものだという感じです。 |
| なぜかと云いますと、高橋地区の地図をよく見て頂くとわかるのですが、「多多羅」「多多羅池」とはっきり 書かれている場所があります。 我が町で多多羅といえば、「多々羅大橋」があります。 では、その多多羅とは、どういう意味なのかと申しますと、古代製鉄法で使われた熔鉱炉のことで、 その多多羅が置かれていた地であろう。 また、砂鉄採集の集散地や砂鉄を含む海岸などに多い地名であると。 |
| また、多多羅という言葉は元来「ふいご」を意味する言葉のようです。 非常に古い言葉で、日本書記に神武天皇のお后になられる媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのみこと) の名前があります。蹈鞴は踏みふいごのことです。この姫は出雲の神、事代主命(ことしろぬしのみこと)の姫 と云われ、我が国の鉄の主要な産地となる出雲の姫の名前です。 |
| では、このたたら製鉄の方法とは、鉄を原料として砂鉄を還元し、鉄を得る方法です。 製鉄炉の立地条件があります。 @ 鉄原料の取れる場所に近いこと。 A 鉄原料と反応させると木炭を作る雑木林が沢山あること。 B 炉を作るのにいい土、粘土が沢山あること この3つです。 |
| そこで、ここで考えられる事は、鉄原料である砂鉄がこの近辺にあったかどうか、それともどこか別の場所から 持ってきたものか? |
| 調べてみましたが、この今治近辺では、来島・小島・波方町の西浦では、鉄不足に悩んだ戦時中、海岸で「竹とい」に砂を流して砂鉄を採取したそうです。 大三島 多多羅、野々江坂から下坂、伯方島伊方、玉川町では木地川上流、蒼社川上流付近。 原料の砂鉄は少し手をのばせば、手に入ったのではないでしょうか。 |
| 三つ目の炉を作る時の土・粘土についてですが、まず炉内の温度は最高1,400℃にまで上がるそうです。 だから、熱に強い土でなくてはなりません。 これは、この土地(場所)が非常にあっていたと思われます。今治市の過去400年間の地図と航空測量写真の 沿岸海域土地条件図の高橋地区の等高線を見るかぎりでは、蒼社川の氾濫の影響か、または、何かの理由で 早くから開拓されていたのではないかと、私は思っております。 |
| なお、当時の製鉄炉は1回毎に炉を壊して鉄を取り出していたために発見しにくかった事もあります。 炉の発掘場所には現在家が建っておりますが、その炉跡をすばらしい技術で保管されています。 |
| この製鉄炉は7世紀後半から8世紀頃だと愛媛大学法文学部 村上 泰通(やすゆき)先生は申されています。 |
| さて、このような貴重な歴史的価値のある製鉄炉を再現してみてはどうでしょうか。 子供から大人を含め、この時代にはもうこの様な技術があったのだと実感し、体験できるような物にしてほしいが どの様なご意見があるのか、お聞かせ下さい。 |
また、西日本と東日本とでは炉形の違いがあります。今回発掘された炉は中国地方に多い長方形箱型炉です。 ということは、鉄の原料・砂鉄を通して他国と交流があったのか、また、出来た鉄をどこに運んだのか。 それには、船が大切な役目を持っているわけです。もうこの時代には、船の技術も進歩して、あらゆる所に 鉄を使ったと考えられます。 今治市が造船の町として発展してきたのは当然のだと思います。 |
| そこで、海事都市構想がある中で、例えば、造船ミュージアムなどを含めて全国的に発信できるような 展示施設を作ってはどうでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。 |
| もし、ここで出来た鉄をこの地域で使うとしたらどこで使う事が出来ただろうか。 まず、考えられる事は、この今治には「国府」があったと云うことです。 では、「伊予国府」について少し触れておきます。 |
書によると、国府とはコクフ・コウ・コフなどと読まれ、また、律令制下の諸国の役所、またその所在地。 |
| 国府を条坊をもつ小型の都城的都市とみる往来の見解は、発掘調査などにより疑問視されている。 役所としての国府は、多くの場合 コの字型の建物配置をとる政庁を中心に、さまざまな官衛、倉庫、工房、 国司の居館である館などから構成され、国内の比較的都に近い場所の立地が多く、官道にそって建設され、 国府湊や国府津を付属させた。このような国府は、現在までの発掘成果では、8世紀初頭に成立し、中心の政庁は大部分が10世紀には廃絶した。 |
| 伊予国府については、その所在地及び実態などは明らかではないが、文献等により今治市域内にあったと推定されています。 |
| この伊予国府跡については、戦前、戦後を通して多くの方々のご意見がございます。 現在国府跡推定地として @上徳 A古国分 B出作 C町谷 D中寺 E八町 があります。 昭和56年・57年・58年に伊予国府跡確認調査をされたが、「伊予国府跡」に直接結びつく遺物、遺構は出てきていません。 これから、伊予国府跡の調査を含めどのようにお考えか、お聞かせ下さい。 |